
人間の五感の中でも、香りを感じる嗅覚だけが記憶をつかさどると言われています。特定の香りを嗅ぐことで、過去の記憶や感情が鮮やかに蘇る現象を「プルースト効果」と呼ぶそうです。
読者の皆さんには、記憶を呼び覚ます特別な香りがありますか?自分にとって、それは「サンパギタ」です。
サンパギタはフィリピンの国花であり、英語名ではアラビアンジャスミンと呼ばれます。9歳までマニラで過ごした僕にとって、幼少期の思い出にはいつもこの懐かしい香りが寄り添っていました。
フィリピンではキリスト教徒が多く、街の至る所でキリストやマリア像が飾られています。その像には必ずサンパギタのレイがかけられ、甘く品のある香りが空間を満たしていました。教会に行けば、子供たちが新鮮なサンパギタを売り、お祝いごとがあれば、小さな白い花が蓮となり海のように並ぶ光景が広がります。
サンパギタの香りは、ジャスミンのようでいてどこか異なり、中性的で控えめ。強く主張はしないのに、心に深く残る。包容力の中に、どこか独立した強ささえ感じさせる香りです。
この香りをどこかに残したい。そして、母のルーツであるフィリピンをミラモアに取り入れたい。そんな思いから生まれたのが「ミラモアキャンドル」です。
2020年、ブルックリンのキャンドル工場を訪れ、自分自身の手で香りを開発したいと願いました。もちろん、本物のサンパギタの花はフィリピンにしかありません。頼れるのは、自分の記憶だけでした。
このご縁が縁となり、南仏グラースへ飛び、調香師と共にサンパギタの香りを再現するプロセスに没頭しました。ジュエリーデザインとは異なり、脳の奥深くにしまいこんでいた記憶を辿り、感覚だけで引き出す作業でした。

キャンドルの陶器はもちろん、金継ぎからインスピレーションを受けています。自分がデザインしたKINTSUGIリングの有機的な線を模倣し、オリジナルのキャンドルが完成しました。
ただのキャンドルと言えばそれまでですが、香りはフィリピン、器は日本。母がフィリピン、父が日本。せっかく受け継いだ二つのカルチャーを、表現した「作品」として残したかったのです。
ミラモアといえば日本とニューヨークのイメージが強いかもしれませんが、フィリピンの要素もどこかに織り込みたかった。香りで記憶を辿り、懐かしい祖母との思い出を表現しています。

祖母は、腰ほどの高さだった僕の手をしっかりと握りながら、混雑したマニラの市場を颯爽と駆け抜け、食材を買い揃えていました。その光景と共に、サンパギタの香りが僕の記憶に鮮やかに焼き付いています。
KINTSUGIリングが「自分をジュエリーで継ぐ」というコンセプトであるならば、香りで「自分を継ぐ」ということなのです。
ジュエリーは感情と密接に結びつき、香りは記憶と深く関係しています。この二つの要素が交わることは偶然のようでいて、僕にとってはもしかすると必然であり、これを手掛ける運命だったのかもしれません。

この疑問がきっかけとなり、香水をデザインしたいという新たな衝動が生まれました。自分がデザインした香りが、誰かの記憶とどのように結びつき、その人の記憶が自分の香りに新たな意味や付加価値を与えるのかを想像するだけで、胸が高鳴ります。
春から秋にかけてキャッスルの庭で咲く花々、長年集めてきた世界中の骨董品、そしてキッチンから立ち上る香り。それらすべてが僕を刺激し、インスピレーションの源となっています。
クリエーションとは、仕事ではなく、自然に溢れ出るもの。見たもの、嗅いだもの、聞いたもの、触れたもの、経験したもの。それらすべてが重なり合い、絶妙なマッチングを生む瞬間を掴み、作品として形にしていく。
これが、僕のデザイン哲学です。
稲木ジョージ
ミラモア創設者&金継ぎ哲学者